豊烈神社
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銅像 水野三郎衛門
戌辰戦争と山形藩
 結末からお話するのは、順不動とは存じますが、戊辰戦争つまり明治維新の後、水野三郎右衛門元宣の銅像が建立されたいきさつを記入いたします。
■山形城主 十二代藩主水野忠精公・十三代藩主水野忠弘
 十一代水野忠邦が天保の改革に失敗し隠居となり、弘化二年(一八四五)水野忠精が家督相続、そのとき僅か十三歳。嘉永二年(一八四九)十八歳の時初めて山形に入部した。その後若年寄り・老中となり江戸を離れられず、山形には数回しか来ていない。忠精の子水野忠弘は慶応二年九月僅か十歳で山形五万石を襲封した。幼少のため藩政時代一度も山形に来ていない。

 仍って・・・

 慶応四年四月十一日父忠精と共に京都に参侯し勤王を誓約させられ、そのまま軟禁状態に京都に留め置かれた。従って戊辰戦争の大事な時期に国許に藩主がいなかった。政局は水野元宣以下重役十一名の評議で行われた。
■家老 水野元宣の苦難
 山形藩は奥羽枢要の地にある為、各藩士の往来は激しく、山形は藩主不在のため何かと嫌疑と圧迫を受け、水野藩や領民の安全を保つため身を犠牲にして苦難をのり超え、大任を果たし、山形を戦火の災いから救いたる苦衷は、市民に対しては忘れ得ぬ大恩人と称すべきである。
■水野三郎右衛門元宣の銅像建設
 旧藩士山形市長雄倉繁次郎・林鉄太郎・印刷業坂部藤太郎等が主唱し、これに市会議員・市内実業家など四十五名が発起人となり、水野三郎右衛門元宣の徳を顕彰するため法要を営むとともに、募金運動を起こした。募金趣意書に水野三郎右衛門の戊辰当時の活躍を述べた。 水野三郎衛門
■募金趣意書
 (前略)嗚呼、此偉人逝って茲に三十三年、爾来星移り物換わり山形市街は戸口倍々繁盛して戸三万余人達し、商工業愈々隆昌を效たして富群市を圧し、県庁、兵営、その他諸官衛、学校、會社亦此の地に林立し、真に東北屈指の市都に居るもの職として此偉人の政策宜しき得たるの賜なり。若し当時三郎右衛門にして戦略を誤り、慶応四年四月四日に於ける彼の達磨寺村付近の交戦を維持し速やかに其の隊伍を引き揚ぐること無からしべば、忽ちにして庄内兵の尾撃する所となり、山形市街其全部を揚げて、天童、新庄等の如く焦土の惨禍を被るや火を見るよりも明かなり。やがて維新改革の盛運に逢うと雖も、荒廃甚しきの地に於いては、今日の如き諸官衛の設置を観るに能わず。又想う、三十三年経過の今日偉人の墓木は当さに垪大なるべく長源寺畔香煙宜しく盛に昇るべきを如何せん。去るものは日に疎きの状態を現して荒涼たる草木の中微かに墓石の孤立を存するのみ。世人、偉人の功績を忘れんとするものの如し。嵩痛歎に耐ゆ可けんや。不肖等自ら其力を憚らず本年七月五日(旧暦五月二十日)其第三十三回忌に相当するを機とし一大法会を営み、将来其の功績の煙滅を防がん為、建碑を策し、別に同君の詳伝を編し之を有志者に頒たんと欲す。紅糊血あり涙あるの義人諸氏奮って応分の義損をなし生等発起人の企図を賛助して、速かに其素士を貫徹せしめられんことを庶幾す。

明治三十四年三月  発起人


旧藩士 雄倉繁次郎・山形市長
旧藩士、林鉄太郎・両羽銀行支配人
旧藩士、坂部藤太郎・印刷業
他・市議会議員・市内実業家など
四十五人
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